尾崎紀世彦の「また逢う日まで」は三度目の正直!諦めない情熱が生んだ名曲の誕生秘話の件

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ニンチド

1971年にリリースされた尾崎紀世彦の「また逢う日まで」は、その感動的なサビで知られる名曲です。しかし、実はこの曲は尾崎紀世彦のために書かれたものではなかったのです。その背景には、ある人物の「諦めない情熱」と、「いい曲、いい歌手を埋もれさせてはいけない」という信念がありました。

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「また逢う日まで」の誕生

この曲は、当初はエアコンのCMソングとして依頼されたものでした。作曲を担当したのは筒美京平さんであり、その曲には印象的なイントロとサビが含まれていました。しかし、スポンサーの意向が変わったため、この曲はお蔵入りとなってしまったのです。しかし、音楽出版社・日音のプロデューサーである村上司さんが、この曲を再生させることを決意します。

「ひとりの悲しみ」との出会い

村上さんは以前、ズー・ニー・ヴーというグループがリリースした「ひとりの悲しみ」にも期待を寄せていました。しかし、なぜかセールスは伸びず、この曲も埋もれてしまったのです。しかし、村上さんは諦めずに再びこの曲を世に出す機会を模索していました。

尾崎紀世彦のソロ転向とデビュー曲の挫折

尾崎紀世彦は、ザ・ワンダースというコーラスグループの一員として活動していました。村上さんは彼の歌唱力を高く評価し、ソロシンガーへの転向を勧めました。尾崎さんは「ひとりの悲しみ」を聴いて心惹かれ、この曲を歌わせてほしいと思っていたのです。しかし、デビュー曲のヒットには恵まれず、事故による入院やプロモーションの不足も響き、売れない時期が続きました。

村上さんの思いと阿久悠さんの詞

村上さんは再び「ひとりの悲しみ」のチャンスを狙い、阿久悠さんに依頼して新たな詞を書いてもらうことを思いつきました。最初は渋る阿久さんでしたが、村上さんの熱意に折れ、「わかった! 尾崎君にふさわしい詞に書き直すよ」と承諾してくれました。新たに書かれた詞は、別れを決意した男女が2人で表札の名前を消し、新しい道に進むという内容でした。また、レコーディングでは、ワンダースの元メンバー2人もコーラスで参加し、尾崎さんと共にサビを歌っているのです。

大ヒットと村上プロデューサーの情熱

「また逢う日まで」はリリース後、大ヒットを記録しました。この異例の成功は、村上プロデューサーの情熱と埋もれた才能への再評価によるものでした。村上さんは「いい曲、いい歌手を埋もれさせてはいけない」という信念のもと、この曲を再生させることで尾崎紀世彦のトップシンガーへの道を開きました。

まとめ

尾崎紀世彦の代表曲である「また逢う日まで」は、本来は尾崎さんのために書かれた曲ではありませんでした。エアコンのCMソングとして作曲され、マンガ家やなせたかしの詞が付けられた後、お蔵入りとなってしまいました。しかし、村上プロデューサーの熱意と阿久悠さんの詞によって、新たなポピュラーソングとして生まれ変わりました。この曲のヒットにより、尾崎紀世彦はトップシンガーの地位を確立し、阿久悠さんと筒美京平さんもヒットメーカーとしての地位を築くことになりました。

村上プロデューサーの情熱と埋もれた才能への再評価が「また逢う日まで」の大ヒットにつながったのです。この曲は、尾崎紀世彦の音楽活動における転機となり、日本の音楽史においても特筆すべき作品となりました。

番組:ニンチド調査ショー

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